信州お薦めスポット #14

登山かも?街道最大難所の和田峠越え

峠には裏と表があると昔読んだ本にあった。山も街道も数々越えたが峠を境に確かに実感する山容や里の激変ぶり。曖昧な記憶だったので、調べてみると元ネタは『秋風帖 峠に関する二三の考察』柳田國男著のようである。峠を越えることを趣味とした柳田は、その体験から「旅人は誰でも心づくべきことである。頂上に来て立ち止まると必ず今まで吹かなかった風が吹く」と、峠へ至る道には表と裏のあると指摘している。「峠の表裏理論」と言われる考察がされた著書である。
そんなわけで和田峠の江戸側・和田宿方面・東側は比較的なだらかに傾斜が徐々に増す。引きかえ京都側・諏訪湖方面・西側は登山とも思える急坂だった。

公武合体と皇女和宮
中山道はスタートの日本橋からどこ宿を訪ねても「皇女和宮」で持ち切り、さもこの目で見たかのような話題ぶりである。行列は警護や人足を含めると総勢3万人、行列は50km、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員された。和田宿前後の当日の往来は6万人とも、奈良井宿通過は4万人の行列と聞かされた。

大老井伊直弼が暗殺されたあと、老中安藤信正らは、衰えつつある幕府の統治力を、朝廷との融和・結合をはかることによって回復しようと考えた。孝明天皇の妹和宮を将軍家茂に降嫁させることに尽力した。また薩摩藩・長州藩のなかにも、幕府あるいは朝廷のいずれかを優越させた公武合体による連合政権の樹立に奔走する動きにでた。皇女和宮10月20日、和宮一行は御所を出立した。東海道筋では川留めによる日程の遅延や過激派による妨害の恐れがあるとして、中山道を江戸へのルートとして選択した。

和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止された。犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこと、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれた。因みに和田宿はその年の春に大火で宿場の殆どを焼失した。秋の和宮一行の宿泊に備えて、復興を急いだ幕府は全国の大工を投入したという。

笠を取り、常に浅間を眺望

「峠の釜めし」横川駅近く、坂本宿から碓氷峠

信州への中山道 歩きはじめ